歴史と文化のまち稲沢~安楽寺船橋)その2(文化財

           (写真および説明は稲沢市教育委員会による)

文化財 1 木造十一面観音立像   平安時代     重要文化財

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  像高97.8㎝,材は榧(かや)を用い、頭、体部はもとより、右手の大半、左手の肘まで、それに若干の彫り直しは認められるが、両足先までを共木につくる一木彫成像。ただ、頭上面は当初のものを亡失して、今残る頂上の如来相ほかの七面も鎌倉末ころの補作と替わっている。腰をわずかにひねり、右足先を踏み出して立つ通常の十一面観音立像である。天冠台(てんかんだい)が低く細かい彫り口、目鼻立ちがやさしく童顔をつくるさま、衣文の彫り口がおだやかな点から、その制作は平安後期のものと考えられる。
 光背は近世の補作で、七重の蓮華座もその蓮弁、蓮肉ともに近世のもので、蓮肉の底には享保5年(1720)7月10日の年紀と京仏師中田市兵衛の名が認められている。しかし、蓮華は、この享保修理のさいのものとは思われず、あるいは頭上面などと共に鎌倉末期ころの補作かもしれない。何分厚手に補彩をほどこしているので、その点定かではない。

 

2 木造阿弥陀如来坐像    平安時代    重要文化財

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        像高145.3㎝ 桧材、寄木造、彫眼、螺髪(らほつ)刻出、衲衣(のうえ)をつけ、左手膝上で掌を仰ぎ、右手屈臂(くっぴ)、前に出して掌を前にして立て、共に第一、二指を捻じ、右足を趺座(ふざ)する。
    像はその像容、形制からして常楽寺法華寺などの如来坐像に相似し、衲衣の衣文の構成、彫り口などは、いかにも平安末の定朝様に倣う作例の一つであるが、都ぶりの奥田安楽寺の弥陀三尊中の中尊などとくらべると両眼、唇の彫り口などに地方作的な特色が示され、作風としては一応定朝様に倣(なら)いながら、おそらくこの地方在住の仏師によって造立されたことを想像させるものである。
    構造の点では、木寄せの風と像内の内刳りを入念にして、常楽寺の釈迦如来像などと比較すると、像の各部を薄手につくり、その点平安末の寄木造りの像の通常の技法により、内(うち)刳(ぐ)りのみについていえば、常楽寺像などより平安時代らしい半丈坐像といえようが、頭部を前後の二材を寄せてつくっているのに、像の胴部全面のみは、中央をたてに矧(は)いで二材を寄せているのは異例といえよう。
    本像は、その像内の胸部及び背面に五大などの梵字を記しているが、他に銘文のたぐいは発見されていない。いま裳先(もさき)を失い、当初の座光(ざこう)は亡失して、大正修理のさい方座(ほうざ)をつくって安置するほか、指先などを補修しており、頭部内に補材をはさむほか各所に当木(あてぎ)・埋木(うめぎ)のあるところをみると、かなり虫触、朽損が著しかったものとおもわれる。

3 木造釈迦如来坐像   平安時代   重要文化財

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        像高142㎝ 桧材、寄木造、彫眼、螺髪刻出、衲衣をつけ、左手膝上で掌を仰ぎ、指を軽く曲げ、右手屈臂、掌を前にして立て、左足を外にして趺座する。
    阿弥陀如来坐像同巧の釈迦坐像であり、内刳りの仕様もほぼ似ている。ただ、相好は面長で一種下ぶくれの肉取りにいささか粗豪の趣があり、一層地方の作風が顕著である。
    大正修理のときには、よほど経年の損傷が目立ったものとみえ、首に接して背板の上部には横材を新補して頭部を支(ささ)え、また、地付(ぢづけ)に数個の補材を当てるほか、両耳朶や左手の第四指先を補っている。この像で補修のもっとも目立つのは、右手の肘より先の前膊(ぜんはく)と手先であるが、これは大正の修理に先立つ近世の補作であろう。元来は漆箔像(しっぱくぞう)であったものとおもわれるが、今日は、各所の虫触部を補修したせいもあって、古色におおわれている。

他の文化財は、安楽寺船橋)その3で。