歴史と文化の町稲沢~善応寺 

わが家から西約1㎞にある善応寺この地方には珍しい浄土宗の名刹。f:id:sihaiku:20140306190102j:plainf:id:sihaiku:20140306190132j:plain

 

 

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宗 派 浄土宗 鎮西派
縁 起 尾張国中島郡の領主大河守一色左京大夫満吉が、比叡山の蓮乗坊唱阿尭空上人の教化を受けて入道し、善応と号し、建仁年中(1201~04)に、己の号をもって寺号として善応寺を創建したという。享保3年(1718)に江戸竜泉寺の仏元が著した『大原問答纂釈』にある「蓮乗坊」の伝記に、このことが記されている。
 「蓮乗坊」の名前は、『大原談議聞書抄』にも、建久3年(1192)に比叡山の顕真が霊山寺で三七ケ日の不断念仏を催したときの12人の僧の名のうちにあげられている。しかし、両者とも「唱阿尭空」の文字は見えない。
 百万遍知恩寺誌要』には、大永2年(1522)秋の大原談議宮講に関する、知恩寺長老あての三条西実隆の書状が収められている。ここでは、実隆は法名の「尭空」と称している。この「尭空」から「蓮乗坊唱阿尭空」の名が考えられたのではあるまいか。『大原問答纂釈』は、当時の善応寺の縁起を利用したと考えられるが、「唱阿尭空」の名はそれ以降につくられたのであろう。
 一色家は足利家の支族で、文永7年(1270)に没した秦氏の子、公深が三河国吉良荘一色に住んだのにはじまる。後に尾張国知多郡や海部郡に勢力をのばした。大河守一色左京大夫満吉は、三宅川・日光川・木曽川などの大河に近い片原一色という地名と、一色氏関係の参河守・左京大夫・満範などからつくられたものと考えられる。
 また、開基満吉は、村内平和の守神として大日堂を建て、大日如来をまつり、この如来の外護のために、現在の富士権現(道上)、春日明神(上方)、八幡大菩薩(中屋敷)、熱田明神(川俣)の四神を村内四方に配置したと伝えられている。創建に関する伝承は信じ難いものであるが、15世紀頃になって、この地域に勢力を得てきた楠氏の後裔という橋本氏の一族が中興あるいは創建に関与した可能性が強い。この地域に少ない新興の浄土宗の寺院が新興の橋本氏によって維持発展したらしいことは興味深い。『尾張徇行記』には、天文元年(1523)に橋本伊賀守が創建したと記されている。


文化財 1 銅造大日如来坐像  室町時代    県指定文化財
    
 座高56.8㎝ 膝張40.9㎝で、五智宝冠をいただき、条  帛をかけ、裳をつけ、胸前に智拳印を結んで座る金剛界大日如来像で、本体は鋳銅製、像内に鉄心が残り、前後に型を割って鋳造したもので、両側及び地付に鋳造のさいの鋳バリが残る。原型はおそらく土であろう。像の内面三ケ所に型持ちが見られる。像はいささか租豪な像容のもので、両手先なども胸前に接して造り、衣文、特に裳先の処理などはだいぶ荒っぽい。作者はいわゆる仏師ではないかもしれない。背面腰まわりに8行にわたり刻銘がある。
  銅像大日如来坐像の願主である横井孫六時勝は、北条高時六世の孫で、今は名古屋市中川区に入る愛知郡横井村に生まれ、のち海部郡八開村の赤目の城主となったが、一時片原一色の城主橋本道求一把の客となっていたという。道求一把は、織田信長の鉄砲の師匠でまた鉄炮隊長でもあったが、永禄元年(1558)5月28日または7月21日の丹羽郡の浮野合戦で戦死した。
 作者の大工羽黒与次郎については目下その所伝を知らない。
 像はその背面の衣文を省き、正面のみの形を整えて仕上げたもので、鋳技もあまりみごととは言い難いが、このころの鋳造像は概ねこのような出来のものであったようである。なお本像の台座は鋳鉄製で、三段・魚鱗葺の蓮弁を鋳出した蓮華(蓮肉上面の天板別製)とその下方に円形の敷茄子のみを残している。本体とちがって鉄で鋳造している理由は知る由もないが、一応像容と合致し、同時代の制作と見られている。

文化財2 厨子     室町時代    市指定文化財

 総高158㎝ 間口72.5㎝ 奥行58.5㎝ 屋根幅146.5㎝
 銅像大日如来坐像が入っている厨子である。
 入母屋造、妻正面で、妻飾りは虹梁に板蟇股の形式をとり、異形の猪目懸魚をつる。屋根は本瓦形の形を木で造り、隅飾りには棟を作らず、隅丸に平瓦がとりついて巧みな取り扱いをみせ、大棟端と平降棟端には鬼瓦をおくが、平降棟には熨斗瓦をみせず、それを低く納めて格好が重苦しくならないように配慮している。柱は、前の二本は円柱、後の二本は角柱であるが、共に土台上に立ち、上部に粽がつき、正側面に腰長押、内法長押をめぐらし、背面は壁にとりつくようになっていて、何も作られていない。正面戸口脇方立を土台と内法長押の間に立て、腰下襷掛け入りの桟唐戸を両開きになっている。
 小さくはあるが、大日如来像と同時期の作と思われる。