わたしとわたしでないものデトックス様(よう)に


                      橋本正秀


アウトマトンが確実な民族の相貌を固唾飲む端々にやがて寛容な
あいつらが人間の死をきめることを決めこむ日がやってくる。き
れい好きなやつらの浄化されきった貌だちの露出された表情のコ
ミュニケーションの道具仕立ての隠蔽を白塗りの厚化粧の群れが
取り囲んでいる。

わたしがわたしでないものに微妙に調節されたいわたし。

現在という瞬間に閉じこめる方向を喪失した痛みの糸の系譜を読
み解く生理の原始の疼きを身体の表層にイメージする。フラット
なオプセッションのわたしかんけいのあなたに巣くう恐怖の連鎖
をベーシックトーンの補強の中に現在するプライベートな身体が
取り囲んでいる。

わたしがわたしでないものに微妙に調節されるわたし。

清浄なげろが清潔な体内に目的もなく蓄積されるなかでパントマ
イムな仮面のことばが接触恐怖をまき散らしながら「イン・ザ・
ボックス」する。孤立した身体が夢想するパブリックな身体の神
聖卑俗のお祭り模様に神聖な糞まき散らすデトックス模様三昧が
取り囲んでいる。

わたしがわたしでないものに微妙に調節されたわたし。

歴史と文化のまち稲沢~浅井神社

浅井神社(あさいじんじゃ)
               所在地:愛知県稲沢市浅井町宮西305


 稲沢市役所から近距離(西北西1.5キロほど)の位置に鎮座している。すぐ東北側東海道新幹線が通っている。式内社・旧郷社でありながら社地は狭く、入口の鳥居をくぐると、もう目の前が拝殿である。拝殿の奥に本殿が造作されている。
 本殿は写真のように一段小高い位置にあって、本殿へは石段を上がっていかなければならない。祭神は小子部連錆鉤(ちいさこべのむらじさひち)。一般的にはあまり耳慣れない神名かと思うが、『日本書紀』の天武紀にも記述がみられる人物である。ここでは式内社調査の記述には「小子部連錆鉤は壬申の乱に際し、尾張国司であり、この地に二万の軍勢を集結し尾張大国霊神社に戦勝祈願を行った。その後、不破の関に赴き大友皇子の軍勢を破り大海人皇子の大勝を導いた。」とある。
 だが、これだけの軍功をあげながら小子部連はなぜか自殺をしてしまう。大海人皇子は首を捻ったというが、皇子でなくとも不審に思うこと請け合いである。このため壬辰の乱の記述中で、小子部連の名は感傷と不可思議に包まれている。
 社伝によれば、当社は戦国期に荒廃し、江戸期には旧地不詳となってしまった。それを近在の氏子たちが天保11年(1840年)に現在地に復旧したという。
 式内社調査には境内社の記載がないが、「尾張式内実訪書」や「「愛知の式内社」には八井命を祭神とする天神社の存在が記されている。
 浅井地区は在のものが少なくなり、年行事などの伝承がむつかしくなってきている。浅井郷と称された往古がなつかしく偲ばれる。
 神社の南80mくらいにはには二重の塔が美しい明蔵寺(真宗)が控えている。

ばくばくとしたきのうのきょうのばくとしたおはなし

「あ・ほうかい 第17号 2010年2月」所収の詩です。

 

  ばくばくとしたきのうのきょうのばくとしたおはなし
                          橋本正秀

 


きのうのきょうのうつろなふるえのみちるしら
べをうのみするてあいのぷろぐらむしょうきょ
するようこうあびてたびだつたんじつのたんぼ
をふりだすきょうをかぎりのあらたえしぼるば
んのぐんらくもおろすとうげのいっぷくをやま
のはになでくるふるふるたまのたまさかてにす
るこんじょうてにおえる。

きょうのあしたのたしかなたよりをぽっけにう
らがれもとめるしらべをはなつひきざんまいの
あるごりずむのたびのゆくすえみさだめよいご
しのおまけをてにてにくだるじゅうどうのさう
んどひとつたべつくす。

あしたのきょうのまどろみうつてにまっちのけ
むりめにしむたびだちをふところでにこのはふ
りしきいぶきおろしのただなかをなにをさがし
にやまなかさまようばくとしたこころねのはり
さけるきもちをただひたすらのみこむひのけつ
いをおもうきのうをおもう。
      

 

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歴史と文化のまち稲沢~安楽寺船橋)その3(文化財

      前回の続き、写真、説明とも稲沢市教育委員会による。

4 木造兜跋毘沙門天立像   藤原時代    県指定文化財

稲沢市で最古と思われる仏像。見飽きることがない。私の最も好きな仏像。

        像高84.5㎝ 総高102.7㎝ 榧材、一木造で、足下(あしもと)の地天まで本体と共木につくる。頭上には高髻(こうきつ)の全面に宝冠をいただき、左手は肘を折って前膊を上柄方にあげ、掌を仰いで宝塔をのせる。右手は側方にのばして五指を握り、持物を執る。唐様甲(かぶと)をつけ、地天は髪を中央で振り分けて衲衣をつけ、肘を膝上について毘沙門天を支え、両膝を折って座る。その両側に尼藍(にらん)婆(ば)、毘藍(びらん)婆(ば)の二鬼の姿はないが、造像時には二鬼をしたがえていたかもしれない。
    小像ではあるが、大きな両眼をことさらに見開き、両巾を一段と広く四角形に型どった面相、その顎を小さく造り、相好全体を上下に圧縮したかに見えるモデリングはすこぶる古様で、制作は藤原期も早い頃のものと認められる。

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5 本堂厨子         室町時代    市指定文化財


       一間入母屋造妻入、木製本瓦葺、間口三尺、奥行き二尺の小厨子であるが、禅宗様によって、緻密(ちみつ)な仕事がなされている。柱は円柱で上下に粽がつき、礎(そ)盤(ばん)上にのる。
       正面に桟(さん)唐戸(からど)を吊り、上部には花狭間(はなざま)を飾る。他の三面は板壁とする。塗装は、黒塗装を主体とし、面には朱を入れる。柱・壁・頭貫・台輪などには彩色が施され、扉には飾り金具が打たれる。壁は胡粉(ごふん)塗(ぬり)とする。細部の様式から、室町時代のものと判断される。

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6 銅造阿弥陀如来坐像   鎌倉時代  市指定文化財

像高 7.95cm 膝張 5.65cm。鋳銅の小さな如来坐像であり、両手先が磨損して印相は定かでないが、肉髻は低平で、あら目の螺髪を鋳出す様や、小締りで温雅な相好を示す面相、腹前のやや重たげに垂れる衲衣の衣文のたたみ方から鎌倉後期の製作と認められる。現在は背後の鏡板を亡失しているが、元来は懸仏の主尊として制作されたものである。
 懸仏は、本地垂迹思想の表れの一つで、神社の本地仏を表す一方法であり、円形の木製ないし銅板の鏡板の中央にこの鋳銅像を配し、背後には銅板透彫りの光背をおき、蓮華座を以ってこれを支える。本例は市内最古の懸仏として貴重である。

※残念ながらこの仏様を私は一度も拝見したことがない。稲沢市指定文化財に、平成5年11月1日に指定されたが、今日のような本堂兼収蔵庫はまだなく、指定後間もなく盗難に遭ってしまったためである。本来あるべき所にできるだけ早くお戻りになることを願っている。

※昭和30年代以降、この寺を訪れる人も少なくなり、稲沢市民でもこの寺の存在や貴重な文化財を知らない人が多く、実に残念なことである。

※四月初めには、本堂前の参道はソメイヨシノの花がきれいに咲き誇る。