正楽寺遺跡・儀長城

私の住んでいる地、儀長。

弥生時代中期中葉から人が住んだ地。その歴史の一コマの紹介。

 

 三宅川は、一宮市街地から稲沢市に至って南下する間に大きく4回蛇行を繰り返す。最後の蛇行を終えて、流路を南西に向ける辺りの右岸の自然堤防上に『儀長正楽寺遺跡』は所在する。県道馬飼・井堀線の拡充整備工事にあたり、今回調査が実施された区域の現状は、畑地および農道で、畑地は苗木栽培に利用されている。この地は苗木栽培では全国でも有数の産地でもあり、地場産業の確固たる地位を占めている。地籍は、稲沢市儀長町佛畑・前南で、標高は約2.5mをはかる。
 遺跡の周辺には、西方1.0~1.5㎞に弥生時代中期末の集落遺跡である『一色青海遺跡』(一色青海町・儀長町・平和町須ケ谷)・『一色長畑遺跡』(一色長畑町)・『跡ノ口遺跡』(一色跡之口町)が所在する。
 一方、三宅川の対岸には『堀之内花ノ木遺跡』(堀之内町)・「尾張国分寺」(矢合町)、さらに北1.2㎞には『尾張国分尼寺』(法花寺町)、そして北東3.5㎞に位置する稲沢市松下一丁目には尾張大国霊神社が存在することから「尾張国府」に比定されている。以上のことからも古代尾張地域の行政の中心地として、この地域が発達していたことがうかがえる。
 本遺跡は、古代には「正楽寺」(儀長町元薬師)、中世には「儀長城」(儀長町同)が存在したと伝承を持つ地域とされている。前者の正楽寺は、尾張国分寺の四至に設定された四楽寺の一つで、尾張国分寺から西方へ0.6~1.0㎞の距離を有する。後者の儀長城は「片原一色城」(片原一色町)の支城として、在地勢力である「橋本伊賀守」の一族または家臣が居住していたとされる。橋本氏は、南朝に属した武将で、応永(1394~1428)の頃から8代180年余ここに居住し、4つの支城(儀長城の他に矢合城・井堀城・三宅城)を持ったとされている。元和元年(1615)一国一城令により、片原一色城と共に廃城となった。すなわち、儀長城は室町~江戸時代初頭までこの地に出城として存在していたことになろう。なお、儀長城は、本城である片原一色城からは南東2.0㎞に位置する。
城主一覧
橋本宣都寺(1代目) 橋本寛勢(2代目) 橋本正秀(3代目)
橋本俊信(4代目)  橋本一巴(5代目) 橋本道一(6代目)
橋本道正(7代目)  橋本正太(8代目)