あ・ほうかい(第5号・6号)

新美南吉の文学と死)

20歳代に児童文学同人誌に掲載したもの。第5号に掲載を改めてすすめられ、2回に分けて再掲したもの。

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  新美南吉の文学と死

 

                         橋本正秀

 

    (一) 

  ○ときどき、背中へとぎたての刃物をあてられるように、ヒヤヒヤした感じを覚えた。   漠然たる死の恐怖なのだ。
      (日記・昭和十七年一月十一日)

  ○やがて破滅がくるということを、いつも予感し、そのために自分はいつも悲しく生き   てきた。その破滅がついに来た。
      (日記・昭和十七年一月十三日)

 これは南吉が病に敗れ、昭和十八年三月二十二日に死ぬ一年ほど前の日記である。これ以降に書かれた作品には、「貧乏な少年の話」「ごんごろ鐘」「おじいさんのランプ」「牛をつないだ椿の木」等、かなりの数にのぼっている。このことから、病の中でも創作意欲が旺盛だったと言えなくはないが、「牛をつないだ椿の木」で、いみじくも海蔵さんに、「わしは、もう思いのこすことはないがや。こんな小さな仕事だが、人のためになることができたからのォ」と、言わせているように、置き土産の趣の方が強いと言わざるを得ない。 南吉はとにかく、死を確かなものと予感しながら、恐怖の裡に生をおくった。南吉の生きた時代は、本格的に戦争の泥沼にずぶずぶとはまりこんでいく時代にあたり、南吉自身の個人的な死の恐怖と、戦争という死の季節の死臭の煙が彼の周囲を包囲しはじめ、好むと好まざるに関わらず、いかに死すべきかという問題に迫られていた。にもかかわらず、彼の作品には、死に対する真摯な想念の一カケラも見出すことができない。このころの日記に、

  ○最後まで自分は、生徒たちに自分の死の間近なことをほのめかしたり、なみだをこぼ   させたりすることはやめよう。
   毅然として逝こう。
   死まで茶化した安藤広重や、斎藤緑雨のことを、ときどきおもえ。
         (昭和十七年一月十三日)

と、書いているが、彼は、死を茶化すほどの意志の力と余裕を持ち得ず、作品を通して死を見つめることもせず、海蔵のように、「小さな仕事」を残そうとしたにとどまるのである。
 そもそも、南吉ほど、己の焦眉の問題を隠蔽せずにはおれない、つまり、自分の死を文学の世界へ持ち込むのを拒む文学者は珍しいのであって、どの作家も、また評論家と称される人にあってすらも、己の問題から出発しているのに比して特異な存在なのである。この慰弊の姿勢は、彼の出自に依存した精神史と密接に絡み合っているのだが、彼の固有のこの姿勢によって、はじめて、「張紅倫」「正坊とクロ」から、「いぼ」「天狗」へと至る作品の創出が可能となった。しかし、同時に、文学に死すことを放棄せねばならなくなってしまった。
 彼と同様に、戦争という死の季節を生きながらえ、変わり目においてついに自決して逝かざるを得なかった文学者に蓮田善明がいる。蓮田は、出征=賜死ととらえ、銃火の中で、自分にとって賜
死とは何かという問題を、「青春の詩宗  大津皇子論」「志貴皇子論」「有心」と、掘り下げていったのである。彼のようにとらえた賜死にあっては、死そのものが、自らの手によりコントロールでき、かつ、自らの意志によることを放擲し運に身を任せるという、微妙で極度の緊張を強いられる状況に、己の全存在を措かざるをえない。一方、蓮田と全く、対照的な場に南吉は生きていた。彼は、死を目前にしながらも、生の範囲内でしか創作活動をなしえなかった。「病む子の祭」では、「死の恐怖」の中で、「毅然として逝こう」と決意しながらも、「死」の予感に目を瞠っているだけで、「死」を身近なものとして、同行者として生きてきただけの深まりを見出すことができない。
 また、幼年期・少年期の疎外された生活の経験に縛られているのか、彼の作品群の中には、展開が全く見られず、「張紅倫」により切り開かれた一本道をひたすらに歩き、逝ってしまった。それゆえ、彼にとって、死は何かの始まりを告げるものでもなければ、何ものかの終わりを示すものでもなかった。

     (二)

 内的連帯願望を軸に、南吉童話を反省的に読み取るならば、はっきりとしたシェーマともいうべきものが、構成の問題として存在することが分かる。このシェーマは、「張紅倫」等が書かれた南吉が一七歳の時分より隠された不動の構成としてあらわれている。
 このシェーマこそ、「ヒューマニズムの作家」「魂の作家」と称されている所以である。かつまた「文学」の究極的成立を妨げている要因でもあるだろう。
 文学は、ピンダロスが、「陸路によるも海路によるも、汝は、極北の民への道を見出さざらん」と歌ったところの極北の民へ導くものでなくてはならない。童話も子の例外ではあり得ないであろう。その為には、怯儒な妥協こそ最大の障害であるのである。南吉には、この人間の弱者としての面の発現形態である。デーモンとの対決を通じ、己のデーモンへの呪詛を通して、極北へと向かう志向性と契機が存在しないかのようである。南吉自身の出自に目を向けると、彼には優れた拠点が、存在するのだが、自身で気づくときについにこなかった。
 「墓碑銘」の世界と、童話・少年小説との乖離
の進行を押しとどめ、埋め尽くす媒介の不在。


  新美南吉の文学と死  (その二)
                            橋本正秀


    (三) 

 滑川道夫氏によると、南吉童話には、悲劇性があるという。その根拠として氏は、「ごんの死」、「海蔵さんの死」をあげている。これらの理由は、これまでの童話が、ハッピーエンドで終わっていたことに対する反撥が南吉にあったからであると。
 たしかに、児童文学の歴史からみるならば、「悲劇的終末」は、児童文学作品に於いては異質なものかもしれない。また、清水和子氏のように、ごんの死には「確かな必然性」があり、「作品の文学性を高める役割を果たし」ており、この「悲劇的結末」によって、「ごんぎつねの主題に明確化」されるという見方も可能かもしれない。しかし、可能だからといって、的を射ているかというと、そうではない。私自身、ごんの死によって主題が明確になったことや、又、主人公の死ということが悲劇の必要条件ということなら、南吉童話に悲劇性があることを認めないわけではない。それにもかかわらず、南吉の主題が明確になればなるほど、又、主人公の死等にともなって失っていったものに多大な関心を寄せねばならないのだ。この関心は、南吉童話への正当な評価を与えるための出発点として、又、必須の要件としてある。我々がここで確認しておかなければならないこと、我々が見出さねばならないことは、主題が明確であることや、悲劇的終末で終わっていることの追認ではなく、これらのことが、南吉童話に即してまた南吉の作家意識に即してどういう意味をもっているかを見極めることである。

    (四) 

   南吉の終生の問題意識は、内的連関が可能な発想についてのそれであった。これは、彼の処女作と目されている「張紅倫」以来そうであった。彼の生い立ちにおける、継母との親子関係の亀裂から、云々しようがしまいがそうなのである。
 彼は生涯孤独であった。
  ○余の作品は、余の天性、性質と、大きな理想を含んでいる。だから、これから多   くの歴史が展開されていって、今から何百・何千年後でも、もしも余の作品が認   められるなら、余はそこに再び生きることができる。二つの点において、余は実   に幸福である。               (日記・昭和  年三月二日)
  ○わたしは自分のまずしい服装と、紳士たちの美しい服装を比較した。そしてまず   しい服装のわたしは天才なんだと思った。紳士たちは、このまずしい中折のわた   しを、どこぞの給仕ぐらいに思っているだろうが、わたしは、天才なんだ。非凡   人なんだ。わたしは、ぬすみ笑いがしたいようにうれしかった。
                         (日記・昭和  年五月七日)
 この立志と手放しの喜びによって、彼の孤独は癒されたのであろうか。病弱なるが故に、入学・就職等の困難に打ちひしがれていた南吉は、現実の生活のまずしさに、ますます孤独を深めていかざるをえなかったと考えられる。いくら未来に生きることが、幸福だと言ってみたところで、現実に存在する南吉に何ほどのことがあろうかとも思われてくる。それにもかかわらず、彼は童話を書き続けていった。しかも、彼の書く童話は、いずれも、実生活をことさらに裏返したような作品であった。
 彼が書く作品の結末を「悲劇的終末」として、現在もてはやされているが、南吉の目に、果たして、「悲劇的終末」と映っていただろうか。私には、この結末は、南吉にとっては「悲劇的終末」というようなものではさらさらなく、まさに、「ハッピー・エンド」そのものであったと思われる。
  たとえば、「張紅倫」においては、紅倫の善意(相互の意思疎通により紅倫がそう思い込んでいたにすぎない)により、再会した時にはお互いに名乗りを上げずじまいであったが、結局、紅倫のお別れの手紙によって、最終的には、交流できてしまう。さらに、故国へ帰る前日にやっと会える否うまく会えるところに一層の脆弱さがある。「ごんぎつね」においても事情はほぼ同じことである。すなわち、ごんが兵十に火縄銃で撃たれ、死ぬことによって、ごんの善意がごんの真意が、兵十に伝わってしまうのである。南吉の作品には、作品により多少の違いはあるが、だいたい似たり寄ったりので、全ての終局場面に、やすらぎが周到に用意してある。
 評論家たちが、「悲劇的終末」があり、これまでの童話とは異なるといくら強調しようが、南吉自身にとっては、「悲劇的終末」などどうでもよいのであり、現実生活の裏返しとして、内的連関が可能になる、その刹那の安らぎがあればよいのである。彼は、自他が、言葉を介して、また、行為を通して理解しあうことの不可能性を、人生の主題として追求してきたのである。彼はこの他とのコミュニケーションすなわち内的連関を、文学の中で、絶えず不可能なものであるにもかかわらず相互に理解し合える結末に意識的にか無意識的にか貶めてしまったのである。
 南吉には、自己の死をもってしても相互の理解がしあえない時こそ、悲劇的結末とうつるのであり、死によって内的連関が満たされたときなどは、ハッピー・エンドそのものである。彼には、死はそんなに重い問題ではなく、内的連帯に比べれば、ちっぽけなものにすぎないのである。この意味において、南吉以前の童話は、すべて「ハッピー・エンド」で終わっていた。ところが、南吉はそれに抵抗し、意識的に「悲劇的終末」に終わらせたというとらえ方が全く成り立ちえないのであり、従来の童話の終末と少しも変わらないのである。また、ひょっとして、彼には死の問題があまりにも些細なことであったので、南吉自身は「悲劇的終末」と言われている終末の特徴には何も気づいてはいなかったのではあるまいか。